天台宗 普賢寺

 多宝山止観院普賢寺は、慈覚大師により創建、慶長8年(1603)に亮光法印により中興されました。さらにそれ以前に15世にわたり住職が名を連ね、比叡山延暦寺の直末(直轄)寺であり「歴史」と「格式」を併せ持つ寺院です。
 普賢寺が位置する小川町奈良梨(ならなし)は、往時には「奈良梨宿」といわれ、川越・児玉往還にあった宿場町でした。当時鎌倉街道上道の拠点として、戦国時代には平時に馬3頭、戦時に馬10頭を置く伝馬宿であり、旧来より歴史的に重要な拠点でもありました。
 その事に由縁し、普賢寺の縁起に関する次のような伝承があります。埼玉県大里郡江南町(現在の熊谷市)の野原、須賀広付近に「五台山 能満寺」という天台宗の古刹があり、鎌倉時代は源頼朝により再興され、伽藍荘厳が美しく、特に武将の信仰を厚く受けていました。ところが文明13年(1481)正月12日に、火災にかかり消失し、翌々文明15年、高見四ツ山城主 増田四郎重富が復興しました。現在では、「幻の能満寺」といわれ、その所在が不詳な寺ですが、能満寺の釈迦三尊のうち、釈迦如来は須賀広の釈迦寺に、文殊菩薩は野原の文殊寺に、普賢菩薩は普賢寺に祀られたということです。
 そして慶長16年(1611)には、上野の寛永寺を創建し、徳川幕府にも大きな影響を及ぼした、天海僧正が普賢寺を訪れ、山号、院号をご染筆されたとも伝えられています。これら数々の伝承は普賢寺が政治や歴史的に由緒ある寺院であったことを示しているものです。
 普賢寺本尊の普賢菩薩は、増益、延命の大きな徳を持つ仏様です。お釈迦様が涅槃に入る3ヶ月も前から自らの死を予言したとき、法華経と法華経を信じる人の守護を普賢菩薩に全てまかせたと記され、普賢菩薩の徳の高さを物語っています。普賢菩薩は、災いを退け、福徳が得られ、寿命を延ばす、そのご利益から多くの人々に信仰されています。 普賢寺は、普賢菩薩様のご利益により、善願成就、息災延命を祈念する人々の拠り所となっています。

      

○所在地 埼玉県比企郡小川町奈良梨830
○住職   新井尚田      

普賢寺の民話・伝説

普賢寺交通案内図


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