住職近況
親死ぬ・子死ぬ・孫死ぬ
皆様、やっと暑さのピークが過ぎて、今月も彼岸を過ぎますと、朝晩はとても過ごしやすい気温・湿度となりました。外から入る風が心地よい。快適に暮らせる気候になりました。本当に今年の夏は辛かった。やっと終わりました。
さて、表題の「親死ぬ・子死ぬ・孫死ぬ」というのは、ご存知の方も多いと思いますが、一休禅師の残した言葉です。ある人が一休さんに「1つめでたい言葉
を書いて頂きたい」とお願いをしたところ、一休さんは筆を取ると「親死ぬ・子死ぬ・孫死ぬ」と書いたそうです。その人はそれを見て「めでたい言葉をお願い
したのですが、これではあんまりでございます。」と言いました。すると一休さんは「親が先に死んで、その子が親になって死に、その孫が親になって死んでい
く。つまり年をとったものから死んでいく。それが一番めでたいことではないか。」とその人を諭したそうです。
人間関係の希薄な現代。人の死が生活の中から遠い出来事となった現代。この言葉の重さをしみじみ考えます。さらに少子化の現代では、子どものいない人も
多く、自分の死が自分の遺伝子の終末である場合も考えられます。とはいえ、死は避けられない現実です。普段は大多数の人は自分の死を意識せずに生きていま
す。これは正常性バイアスの1つで、自分がいつ死ぬかわからない心境でいた場合、精神的、肉体的に正常ではいられません。当然、自分を守るための妥当な状
態だと思います。
一方で私は程なく還暦を迎えます。また父親も三年前に亡くなりました。ある時ふと自分の死を考える時があります。包み隠さず言うと、恐怖です。死というものについて、様々な思想家、哲学者がアプローチしてきましたが、恐怖は消し去ることはできないと感じています。
ただし、恐怖を少しでも和らげてくれることがあります。当然、仏教の教えもその一つです。死後は阿弥陀如来様のいらっしゃる、極楽浄土へ行き、安楽に暮
らせるよう、日々の精進を行っています。極楽浄土があると思えば恐怖も少しは和らぎます。もう一つは、地域の人のつながりだと思います。私が暮らしている
地域では様々な年齢層の人が暮らしています。煩わしくない程度に付き合いもあり、会えば気楽に雑談もできます。そのような人が、年齢の順に(たまに例外は
ありますが)、亡くなっていきます。あと何年、次は自分の順番かと思うと、その人達のいるところに旅立つのだと思うと少し恐怖が薄らぐのです。
死は避けられませんが、宗教や、人とのつながりによってその恐怖や苦しみが和らぐのだと思います。これからも親族をはじめ地域の多くの人に守られ、そして守り生きていきたいと思います。
沙門 尚田 敬白